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レンゲ日記


レンゲ日記のこえ

彼のやることは この会はまず同好者にそれぞれ趣向をこらした席をもってもらい、白分は席をもたない。
そのかわり枯木や枯死寸前のボンサイ四、五点を出品して飾る。
枯木の錦松にはへめでられし松のボンサイ枯れにけり 君に千歳の齢ゆず叭て、としたためた短冊しを下げそおぐと応うた按排」追善ひ気をんに与虐' 彼のやることは奇想酸めぐらした趣向綻なつており、招いた客を喜ぱせ、あるいは戸惑わ丑たりしたものだが、惜しいことに昭和四年に死去した。
翌年の四月八日の一周忌に日本橋倶楽部で南蛮王・北川礼弼、有名な菓子商岡埜栄泉、株屋山中清兵衛、水石家谷沢溪石、東京市助役中鉢美明、東芝取締役小林作太郎らの旧友同好の士が追善ボンサイ会を開いているが、盆友が数多く参加した。
ボンサイ史上にも有名な「小天地会」のメンバーてある白由党の党士、蠣雨・龍野周一郎、田申銀行会頭田中銀之助、株屋の中島豊次郎らであった。
田中は実業家だけにボンサイの買い方も実直。
直幹一本やりで、直幹以外には目もくれなかったという、その道ては変わり種の入物であった。
他に第二十二世束本願寺法主大谷光埜伯爵などもいた. さて枯木供養をする入はそうそういなかったが、楽荘は本名を伝二一郎といい、新渇県小f「谷市の素封由啄、杉蔭大塚益郎干大に入潭子。
以来ボンサイと水石に親しんだ人である。
あまりにも多い道楽にたまりかねた父親が"道楽はほどほどにして八つぐらいにしたら…"といったのを期に十二あった道楽を八つに減らし、号を八楽荘どし二 れに心を傾く事、四時朝夕一日の休みもなく、 流るる月日も忘る。
…(中略)…入間は朝に紅顔、 夕に白骨と化するが、草木汝も正に心ありてよ く人と語り、笑い、風に舞い、雨に泣き.四時 花咲き、花散りて風情を示し、人間を楽しめて 寿命の延引、長春を計ること枚挙にいとまなし。
たとい殺傷、枯死するといえども、その霊を等 閑にずべからざるを思いその供養追善を営むべ きを悟る、時は二月十五日、釈尊御他界浬樂の 命日を幸、当八楽苑内再思庵において『ボンサイ皓 木大供養』を執行せり」 と。
再思庵の門から式場まで、杉葉、ススキ穂をあしらった飾棒に五色紙を飾リ、これに提灯と.ろうそく立をならべる。
式場には釈迦浬樂の古画を掛け、まの前に青銅の大仏像を安置、さらにそとその位牌を立て、供物や盛物、燭台、銅羅などを置く。

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