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ダリヤの花のおもい

dahlia
灌水のヨ的と要点を知ろう。
水掛け三年。
普から,氷掛け三年事という言葉があるように、一人前の潅水ができるようになるには、かなりの習練が必要とさ忙ております。
どうも我が国には,石の上にも三年とかいうように、やたらに三年とか八隼とかいう言葉が出てきますが、これは比瞼ですからそのことははなしの外におくとして、潅水とははたしてそんなに難しいものなのか。
あるいはもっと簡単にみてよいものなのかも一考の余地があると思います。

わたし自身も、三卜甲ほとの隼月をおじいさんの植木に課しんでおりますが、現ていませんし、また初心者であっても、基本概念さえ誤らなければ、今日からでも80点位の潅水はできるものだというのが結論だと思っております。
潅水は.用土の種類や大きさ、樹種や樹齢、環堀や培幾方法などが極めて複雑に作用しますから、その方法に完壁さを求めること嵐体所詮無理なことかも知れません。
その反面、作業自体完壁でなくても、おじいさんの植木自体がほぼ満足に近い生育をしめすならば、それほ及第生ないし優等生の潅水ということができます。
しかし現実に多くの愛好者の会をみる眼り、先生の方は別として、多るようです。
これはプロに較べ時間的制約のあることも考えられますが、最大のものは概念に誤りがあるからで、このことは購習会などで多くの方々と接するとき、痛切に感じられるところです。
例えば、水が多いことが根腐れに通ずるなどというのは、誤りの中でも罪深いものといわなけれぱなりません。
ここでは八○点から九〇点を回指す潅水をめぐって、その概要を述べたいと思います。


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愛をもっている、だから大切に育てようとしている。
この点に関する限りは、決して植物いじめではない。
まことにお言葉のように、われわれに誹誇されるいわれはないのである。
しかし、冷静に考察してみると「自然の歪曲」という誹誇に対して、の間題に答えていない。
いいかえれぱ、「育てる面」に対しては、「生まのままの自然」よりもかえって愛をもって優遇していると反論されたが、狭まくるしい鉢の中に閉じこめて大きくさせず、針金をまきつけて仕立てるという「整形の面」については、なんら答えられていないのである。
あるいは生まのままの自然が決して幸福ではない」という意味の言葉が、その答えになっているのかも知れないが、それだけではあまりにも独善的にすぎる。
たとえば、こういう問いかけがある。
「盆栽をまったく知らないわたしのような人間が盆栽家の話を聞いてまっさきにいだく素朴な疑閾"なぜ、自然を変えながら、本当の箇然を楽しむなどというのだろうか。
「盆栽は文化的創作物の中でも、かなり奇妙なものに属している、それは一方には、いわゆる天然のままの生命が息づいており、他方にはきわめて強烈な人工灼なもの、つまり規範性の主張がふくまれている」 いずれも、盆栽の社会学」の中での池井望氏の言葉だが、盆栽を客観的にみようとする学者の声として当然といえるだろう。
どう孝えても、盆栽は植物愛から出発しながら、その植物を整形することによって完成するものだからである。
つまり、植物をいたわりながら、植物を人工的に変えるという矛盾をその作業の内部に抱いているのだ。
ただ、問題は、それを植物いじめや自然の歪曲とみるかどうか、ということだろう。
これについては「盆栽道は樹の自然的性質を察して育成が、たしかに、われわれの側からいえぱ、植物本来の性傭を蚕曲しよう一、とはしていないのだ、むしろ、その性質を生かすことによって、形をととの、足、美樹名木に昇格させようとしているのである。
いずれにしても、盆栽が「制約された自然」であることは否定できない。
われわれはそれをでき得る限り、人工的でなくやりたい、と思っているわけなのである。

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